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“洋画商” 第一号のスタート
昭和三年(1928年)の春、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業したばかりの友人の絵を二点携えた青年が、東京から横浜へ向かっていました。その青年こそ、後の日動画廊の創業者、長谷川仁その人です。彼は親友の弟に「洋画商はこれから将来性がある仕事だ」と助言され、洋画商の道を進み、日本の洋画商第一号として歩み始めることを決心するのでした。
“誰もやったことのない洋画商という仕事は、神の声を人々に伝道するのに似た覚悟が必要です”
先駆となった日動画廊
昭和六年(1931年)十一月の文化の日に、数寄屋橋に近い銀座の日本動産火災保険ビルの一階に画廊がオープンしました。その時は「東京画廊」の看板を掲げていましたが、二か月後の昭和七年の元旦には「日動画廊」の看板が掲げられました。大家の社名を縮めた名を使ったわけですが、大家でさえまだ「日本動産火災」と言っていた頃のこと、新進の気風を表した看板であったといえるでしょう。
明治のころから画商、洋画商の姿はわずかながらありましたが、本格的な洋画商は日動画廊が日本で初めてであり、ましてや洋画専門に扱う本格的「画廊」としては、日動画廊が先鞭を取っていました。
「日動画廊は洋画のデパートだ」
権威や大家の傘下に寄ることなく、新進作家の援助を惜しまず、常に画家と誠意をもって接しながら、伝道の心で多くの人々に芸術を広めようと心を砕いた長谷川仁。「日動画廊は洋画のデパートだ」と揶揄を含んだ風評も聞こえてきましたが、長谷川は自分の道を信じ、有名無名、高価なものも安価なものも取り混ぜ、「画商が自分の好みを押し付けるのは良くない」という姿勢を貫き、多くの作品を展示するよう努めてました。
“俺は見てないんだから知らないよ。お前が良いと思えば買えばいいじゃないか”
日動画廊の次代へ、日本美術界の次代へ
長谷川仁が六十歳を過ぎたころ、長男、次男はすでに没し、三男の長谷川徳七がカナダ留学の後に銀行員となっていました。当初は長女の婿が日動画廊二代目となって継ぐ予定でしたが急遽徳七に白羽の矢が当たり、全く異なる世界へと足を踏み入れることになりました。とはいっても幼少期より洋画に接し、画家たちに接しながら育った徳七のこと。審美眼、鑑定眼は自ずと養われていたのです。
入社後数年を経た徳七が三十歳になるかならない頃のこと。作品の買い付けにヨーロッパに渡っていた徳七から、すでに引退表明をしていた仁へ国際電話がはいりました。当時一億円の値がついていた絵を買ってよいかどうかの相談でした。それに対して仁は「俺は見てないんだから知らないよ。お前が良いと思えば買えばいいじゃないか」と一任。この篤い信頼が徳七の自信と責任感の礎となり、実践教育の糧となったのです。
「清水の舞台から飛び降りた気で買います。何とかして売らないといけないと重責も痛感します。その真剣さが目を養うんです。何日間もかけられないから即決力も養われました。普通、初代は二代目に譲るといっても、いつまでたっても子供は子供で、任せきらないんじゃないでしょうか。だから難しい。そういう意味で父にとても感謝しています」と、その時の経験を現日動画廊社長の長谷川徳七は感慨深く語ります。
徳七の時代になり昭和生まれの作家を対象とした「昭和会」もスタートしました。自身と近い世代の画家たちを育て、世に出していこうと考えた徳七の意を具現化した「昭和会」は昭和会賞他、様々な賞も設けられ、受賞作家たちのその後の活動もバックアップするというきめ細かさも加味され、時代の作家を育てる貴重な場として今へと続けられています。