長谷川仁が六十歳を過ぎたころ、長男、次男はすでに没し、三男の長谷川徳七がカナダ留学の後に銀行員となっていました。当初は長女の婿が日動画廊二代目となって継ぐ予定でしたが急遽徳七に白羽の矢が当たり、全く異なる世界へと足を踏み入れることになりました。とはいっても幼少期より洋画に接し、画家たちに接しながら育った徳七のこと。審美眼、鑑定眼は自ずと養われていたのです。
入社後数年を経た徳七が三十歳になるかならない頃のこと。作品の買い付けにヨーロッパに渡っていた徳七から、すでに引退表明をしていた仁へ国際電話がはいりました。当時一億円の値がついていた絵を買ってよいかどうかの相談でした。それに対して仁は「俺は見てないんだから知らないよ。お前が良いと思えば買えばいいじゃないか」と一任。この篤い信頼が徳七の自信と責任感の礎となり、実践教育の糧となったのです。
「清水の舞台から飛び降りた気で買います。何とかして売らないといけないと重責も痛感します。その真剣さが目を養うんです。何日間もかけられないから即決力も養われました。普通、初代は二代目に譲るといっても、いつまでたっても子供は子供で、任せきらないんじゃないでしょうか。だから難しい。そういう意味で父にとても感謝しています」と、その時の経験を現日動画廊社長の長谷川徳七は感慨深く語ります。
徳七の時代になり昭和生まれの作家を対象とした「昭和会」もスタートしました。自身と近い世代の画家たちを育て、世に出していこうと考えた徳七の意を具現化した「昭和会」は昭和会賞他、様々な賞も設けられ、受賞作家たちのその後の活動もバックアップするというきめ細かさも加味され、時代の作家を育てる貴重な場として今へと続けられています。